発 祥

明治9年10月

新宿地区では最初の印刷会社と思われる「秀英舎」が市ヶ谷に東京で最大規模の印刷会社を建設する。

明治40年4月

榎町に「日清印刷」が設立される。その後、「秀英舎」と合併し、現在の「大日本印刷株式会社」の礎を作る。

明治43年7月

活版印刷の組合と銅板・石版の組合が合体、組織拡大を続け「東京印刷同業組合」を設立する。この同業組合設立のリーダー的存在だった佐久間貞一は、新宿地区では最初の印刷会社と思われる秀英舎の初代社長。

大正時代初め

「秀英舎」が中心となり印刷業者20数社の同意を得、親睦団体「西北印刷盟会」が結成される。
(新宿支部の母体となる牛込支部の前身)

大正12年9月

関東大震災に襲われ、神田、日本橋、本所、深川、芝などの印刷・出版の約80%が焼失。しかし、牛込や四谷、淀橋など現在の新宿区域は被害も少なく、これが幸いして震災から2週間後ぐらいには息を吹き返した。そして言論出版界からの印刷需要が印刷機の動いていた新宿周辺の印刷業者に集中。これにより山吹町、鶴巻町から飯田橋一帯にかけて印刷所が続々と増加する。

大正13年

「東京印刷同業組合」が支部制を施行し、新宿支部の前身である「牛込支部」と「四谷支部」が誕生。この時点では本部が「組合員としての行政区」として支部を決めているだけであった。

大正15年2月20日

四谷支部が新宿ホテルで支部発会式を行う(初代支部長に万月堂の有吉喜兵衛氏が就任)。それまで10~15社だった支部員が一気に50社に増えている。

大正15年5月16日

牛込支部が早稲田大学の大隈会館で支部発会式を行う(初代支部長に三吉印刷の竹平与吉氏が就任)。

大正15年11月16日

牛込高等小学校の落成を祝い、牛込支部有志が印刷諸機材を贈呈。

新宿支部誕生

戦 中

大日本帝国富国強兵の国策により印刷業界は産業報国連合会の中に組織され、両支部とも国家施策遂行の中で協力を余儀なくされた時代が続く。やがて敗戦により両支部組織は壊滅的打撃を受ける。

昭和22年3月15日

特別区制度の施行により「新宿区」が誕生、業界組織としては牛込、四谷両支部が合併して「新宿支部」となる。

第一期…再出発の基礎作りの時代

 青柳支部長時代に、「新宿支部独立宣言」を発し本部脱退事件が起きる。支部を地域別に分け、それぞれ地域の役員が中心となり、個別訪問したり、無尽会などで組合員の増強に力を入れていたが、本部から支部に対する事業というものは何もないことに反発しての脱退事件であった。
 その後、中小の印刷業が調整組合として業界を統一した時期に、新宿支部も臨時総会を開催し本部への復帰を決定している。
 組合が再出発した昭和33年、初代支部長に青柳全広氏(赤城印刷)、第二代目支部長・工藤武雄氏(工藤印刷所)、第三代目支部長・鍛冶栄二氏(鋼版印刷)。
 脱退後支部員は急速に増えて、50社足らずの支部員が倍増の100社まで伸びる。「新宿一家」と言われた頃であり、支部の意見が本部に取り入れられ、料金問題、支部長協和会ができるなど次第に事業も活発になる。
 昭和39年、第四代目支部長の苛原十郎氏(交通印刷)、第五代目支部長・大川原正人氏(大川原印刷)時代に“独立した組合支部事務所の設置”。自由に何時でも使える場所、電話一本で必要情報が分かるような我々の活動母体は、当時は支部長の会社の一室を借りており、将来を考えて“支部会館を建てましょう”と提案。

第二期…構造改善と支部近代化の時代

 40年代後半は、支部の縦割りである班組織が活動を始め、横の組織として「平版部会」。「頁物部会」、「小企業部会」、「青年部会」など相次いで結成される。支部事業も積極的に展開され業界全体としても近代化に取り組み、第一次構造改善事業なども実施され、当支部においても「新宿製版印刷協同組合」「東西印刷協同組合」など共同事業で支部の結束を固めていた。
 昭和47年後半、第六代目支部長・高橋誠一氏(高橋工芸社)、第七代目支部長・松本一磨氏(松濤印刷)、会計担当として現在の相談役・仲井正氏(新灯印刷)、現顧問の滝澤宏氏らが中心になり、幾多の苦難と試練を乗り越えて支部会館が着工され、そして支部団結の象徴としての“支部の城”が完成した。
  第八代目支部長・余水清氏(東京平版)の時には、印刷会館の5周年事業があり、第九代目支部長・大沢正巳氏(江川堂印刷)では、印刷会館は安定した運営になり、銀行の借入金も全額返済され、念願の利益を計上するなど印刷会館との連携が順調に進展し、活動拠点を確立した。

第三期…技術革新と業態変化の時代

 昭和54年東芝が初の日本語ワードプロセッサー(当時630万円)を発売した。
 この時期は、文字組版、電算写植、トータルスキャナーなど、印刷関連の機材展を催すことが目立ち始め、技術革新の進歩を受け入れた研修会を第十代目支部長・田中昭三氏(理想社)が連続7回開催し、情報化時代の到来に対処していた。
 そして、“われらの城”支部会館10周年が開催された。第十一代目支部長・笠井康弘氏(国際文献印刷社)は、まさに業態変化の真っ只中で、明治座での支部永年勤続表彰式1184名、本部大運動会380名の参加で新宿大印刷家族が誕生し、支部組織の充実を図る一方、労働省による印刷業の営業員を対象とする「印刷外交技術士」営業士資格の国家検定化制度に対し絶対阻止という決議をしたなどの活動に終始した。
 昭和61年4月、第十二代目支部長・額賀宏文氏(精美印刷)は組織力、団結力を中心として、経営者相互の交流を行い支部活性化に尽くした。

昭和から平成・・・ 業界変化と節目の時代へ

 通産省の機関により「21世紀の印刷産業ビジョン」が発表、業界で注目される。
 支部ではOA化と業界情報等の啓蒙活動が三期6年間、第十三代目支部長・滝澤宏氏(滝澤新聞印刷)によって開始。重点目標に、班会議の活性化とすでに始まっている「技術革新」と「印刷業態の変化」に対応すべく、“マッキントッシュセミナー”が経営者・実務者向に計24回印刷会館とのジョイントで開催、組合員に対し警笛を鳴らした。
 先端技術の啓蒙を引き続いて第十四代目支部長・堀川哲氏(太平洋)は、「時流への対応」をテーマとしてDTP先端セミナー、講演会、研修会を開催した。一方で、平成7年に組合員増強運動を展開し組合員15社加入、組合員数150社に回復した。そして支部の歴史を綴る「新宿支部ニュース150号記念誌」を発刊した。

 平成8年頃は日本経済の悪化と先行きに不透明感が浸透、印刷業界では過当競争の状況と組合員が大幅に減少と組合離れが深刻化してきた。第十五代目支部長・神田貞實氏(神田印刷)は支部活性化を重点に経営革新研修会、電子化セミナーなど行う。
 そして、転換期と苦境時代に突入した中、平成12年少数精鋭・新体制で第十六代目支部長・岡崎光夫氏(太陽印刷工業)がスタートした。激動の20世紀から21世紀に移り、中期ビジョン「2005計画」研修会を主体に活動、経営研究会、班組織、部会の活性化に努力したが組合員の減少は止まらなかった。

  第十七代目支部長・神田貞利氏(神田印刷)の時期には情報化が進展、ネットワーク時代の到来により歴史的な大転換期を迎えたが、すでに支部組合員は90数社まで減少となったことで、班組織の見直しが平成17年秋の役員会で従来の班組織を4班に再編成することで決定された。

 その後を引き継ぎ第十八代目支部長・菊地拓朗氏(協友印刷)執行部が誕生。可能性とリスクに向かって、「おまかせください」「お引き受けいたします」「組合員のための支部事業・・・」をモットーに燃えに燃えたぎる情熱を持って支部運営に従事。

 結果、新入会員16社の加入を実現し、平成20年1月23日(水)には支部の周年事業としては初めての60周年記念式典および祝賀会をリーガロイヤルホテル(東京)にて催行。支部60年史を刊行。

時代への挑戦・・・ 改革と実行そして次代への継承

 第十九目支部長・佐々木慎一氏(河和田屋印刷)執行部が運営中です。組合員相互の連携を強化し、当分続くと思われる不景気を乗りきって行ければと思っております。皆様の絶大なるご支援、ご協力をお願い申し上げます。